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■月刊秘伝のこと

 

 最近、中村元の「合理主義」という本を読んだ。趣旨は合理主義に対する東西のロジックの差異や、仏教を始めとする東洋思想に、本来ある合理性のことなど。例えば神というものを立てない仏教を中心とする古代インドの諸哲学は、あくまでも人間集団が生存してゆく過程で必要な普遍性(ダルマ)を追求したという点で、神-イエスの奇蹟-現実の現象世界を思弁的に結び付けようとしたキリスト教社会よりも、自然科学的発想の稚拙さを除けば、より合理的であった。かく言う中村元は仏教思想の碩学。

 そして同著の帰結において彼は、自然科学的合理性の出発点には、ある種の宗教的情緒、ないし純粋(普遍)化された「愛」が必要であり、合理的観点からもそれ(宗教性)は決して前時代の迷信ではなく、人間存在の基盤足りうるという。


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 話は変わって今、久しぶりに井筒俊彦を読んでいる。「イスラーム思想史」。イスラームの思想は数年前、同著者の本を数冊読んで、その思想の緻密さに舌を巻いた。曰く形而上的思弁と、神に代表される究極的真理ないし真理的存在は厳密に区別されないといけない。人間の思弁はギリギリまで真理的存在を追求しても、皮膜一枚のところで到達することは出来ない。イエスを神の一人子としてしまったキリスト教は、イスラーム曰く、その点で自己矛盾を孕む。故にイスラームでは、イエスは一介の預言者でしかない。

 もともと聖典「コーラン」事態に、もうすでに論理的矛盾が内包されていて、イスラームの思惟に対する厳密さは、その事から始まっているのだそう。

 井筒先生曰く、セム系民族であるアラビア人は、視覚的、聴覚的なものに異常なまでに敏感で、故に極端なほどに物質的であり、形而上的思弁とは全く無縁な民族であった。そのため「コーラン」は邦訳を呼んだところで全くつまらない書物で、しかしそれを原語で読めば、その音韻の美しさ、迫り来るイマージュの応酬に眩暈するような書物で、まさにアッラーが視覚的、聴覚的に立ち現れてくるのだそうで、それ以前、無道時代と言われたベェドウィン達の歴史は、立ち現れるアッラーの御前に、新たなる時代を迎えた。

 しかし、イスラームが批判するイエス自身も、ある種の宗教的天才であった。その才能を持って奇蹟を行い、旧世界に、神の「愛」の到来を告げた(少なくともそうした事跡があった)。目の前で繰り広げられる、奇蹟に裏打ちされたイエスの言葉は、コーランよろしく、人びとの意識を変革するに足る力があったであろう。

 しかし、二十世紀に投下された原爆の威力は、これも確かに世界の認識を一新させる力足りえたが、これは「暴力」であり、中村元曰く、やはり自然科学的思惟の土台には、宗教的情緒、ないし「愛」が必要なのだった。

 

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 ところで、月刊「秘伝」である。これは某雑誌にて、「月一で秘伝が学べる!!。年間購読すると達人になれる??」などとはやされたりもするが、しかし日本の武術業界を密やかに牽引してきたと僕は思っていて、記事内容も賛否あれ、この利益中心主義社会の中にあって、マイノリティを通し、とても真面目な仕事をしていると思う。

 その十一月号の特集記事が、「己を知るための“身体地図”/武術家のための身体解剖学」。と、言っても、医学の解剖図紹介と言うわけではなく、身体感覚の解剖図、と言った感じ。

 所為、身体感覚とは何ぞや。

 例えば中国武術には「勁(ケイ)」と言う概念があり、これは先天的に人間が使いうる「力」とは区別されて、後天的に、訓練によって練られた「ちから」を「勁」と言う。そして「勁道」と言う概念があり、例えば何々と言う技は僧坊筋と内転筋群を使って・・・、と言った説明ではなく、現代の医学では分類されづらい(武術家独自の)筋群や骨格の感覚によって練られた、力の道筋(連動)のことで、たぶんに主観的要素も含む。

 しかし、これはあくまで僕が言う身体感覚の一例だが、今回の特集記事はそうした伝統も踏まえつつ、逆にもっと客観的に、自然科学的思惟に耐えうる表現で、主に武術のパフォーマンスを向上させる目的の記事が組まれている。

 

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 去年の暮れから何かとお世話になっているAT(アレクサンダー・テクニーク)のかわかみ先生も今回特集記事を書いていて、久しぶりに僕も購入した次第。

 しかし感覚を伝えることは難しい。僕もよく、故あって感覚を大事にする種類の舞台パフォーマンスや、創作舞踊の系統を観に行くことがあるが、殆どが内向的になり過ぎて、ひどいものは一人遊びの感を出ない。ある武術家が「感じることと、感じていると考えていることは違う」と手厳しくいっていたが、まさにその通りなのであった。

 今回の記事の中にも内部感覚から、さらに外へ発展させるためのヒント、示唆が少しあった。しかしかわかみ先生曰く「紙面の都合もあり中々言いたいことの全てを載せるのは難しい」とのことで、確かにある程度、身体を使うことを日常にした人でないと、例えばいかに武術が好きと言っても、周りに機会が無く、誌面やネット上の情報にしか触れ得ない人が見ても、その真意は伝わりにくいのかも知れない。

 兎に角、「内部感覚から、さらに外へ発展させる」と言うのは、これは僕の個人的な感想であり、雑誌の筆者達の趣旨に沿う読み方が出来たか、僕自身甚だ怪しいが、「内部感覚から、他者へのアプローチ」のような特集も、次回に期待したい次第。

 

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 話の流れ上、上述した宗教情緒の前振りが甚だ曖昧に堕してしまった。補足すれば、「愛」と言うものをさらに展開し、「他者への共感」と意訳すれば、それは近代を席巻する自然科学的合理主義によって育まれるものではない。宗教的情緒という言葉に対する近代人の反発心、嫌悪を考慮すれば、僕はこの自然世界を体感しうる人間の身体感覚ないし感性こそ、宗教的情緒に変わるものではないかと考えている。

 その意味で、甚だ観念的になってしまった(主に都市部であろう)近代人の感性を開く意味でも、今回の「秘伝」の特集記事は、今後の発展に期待したい。

 

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 私見では、近代とは余りに急激に全ての伝統文化を置き去りにしてしまったのではないかと思う(それは日本の近代化を思ってみると良い)。故に未だ前近代的なもの(文化)の再評価も曖昧なままである。伝統武術も然り。二千年代初め、伝統武術の見直しが盛んにメディアでクローズアップされた時期もあったが、それも近代に対する(現代人よりもすごかった的な)アンチテーゼで終わってしまった感がある。

 しかしイエスは奇蹟を行なって歴史に名を残したのではない。それは人々に、「愛」を伝えたからなのだ・・・、と言うことを、蛇足として書き添えたい。

 

おしまい


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